2022年01月07日

【東日本大震災】レポートNo.311

 新型コロナウィルスが落ち着いた時期を見計らって、昨年12月の中旬から年末まで駆け足で岩手県を訪問しました。コロナ禍で3月の以来の訪問となり、2年ぶりに対面で会えた方もおられ、今回の訪問は東日本大震災から10年の年月の重みを感じる訪問でした。
 最初に訪れたのは拠点のある遠野市です。この10年間まけないぞうを支えて下さった「ふきのとうの会」の代表をしていた菊地加代子さんが被災された住民さんに月に一回つるしびななどの手芸を指導しておられた会場です。みなさん元気そうで今年の干支虎の飾り物を制作中でした。

つるしびな_R.jpg

 今回もmakenaizoneのみなさんから届いたお手紙と昨年11月11日の震災から10年8ヶ月の月命日に「忘れてへんよ」の想いを込めて開催された“10th東北の手わざ展”でのアルバムを作り手さんにお届けしました。
 「みんなあちこちでぞうさん作っているのね」と「えーーー!!!違いますよ!みなさんぞうさんを買って応援してくれているんですよ(^^;」(笑)と慌てて訂正させて頂きました。「あーそうなの!ぞうさんは長いね〜(ぞうの鼻ではなく活動がです)ずっと応援してくれているのね」としみじみにお手紙やアルバムに目を通してくれています。「わぁこの人、前に仮設に来てくれたわね。覚えているわ。」など遠くにいてもお手紙を通して、つながっていることに思わず笑みがこぼれます。
 「愛犬が亡くなって2年経つんだけど、ものをつくると愛犬の顔に似るのよね。この間は、おじいさんと、おばあさんを作ったのだけれど、おばあさんの顔が私の母によく似ているの。」と。何故かまけないぞうもつくり手さんに似るのです。とっても不思議ですが、創る人の魂が込められ、似てくるのでしょうか。笑った顔も、泣き顔も、めんこい(かわいい)顔も、めぐさい(かわいくない)顔も、めぐさめんこい顔も、まけないぞうを一つとってもいろんな表情が生まれます。同じつくり手さんでも同じ顔は一つとないのです。

お手紙NO1_R.jpg

お手紙NO2_R.jpg

アルバムNO1_R.jpg

アルバムNO2_R.jpg

手作り人形_R.jpg

 その後、陸前高田市に向かいました。実はこの日茨城県常総市の水害や熊本県の地震で一緒に活動したことのある福井大学医学部で災害看護学を学んでいるMさんが偶然実習で現地に来ていたのです。私たちはお互いにそのことを知らなかったのですが、まけないぞうを通してつながった住民さんがMさんと話しているときに、「ぞうさん、神戸、えっ智ちゃん(増島)!!」とつながり急遽、陸前高田まで足を運び、何年振りかの再会を果たすことができました。

記念撮影_R.jpg

住民さんは、津波後の仮設住宅でまけないぞうづくりに参加し、遠野の人たちと出会い、“つるしびな”を作り続けたのです。当初は手芸はあまりしたことがなかったのですが、才能が開花したように、“つるしびな”などのものづくりにはまり、まけないぞうもオリジナルでブローチみたいなぞうさんを作って、被災地にくる大学生などのボランティアさんに何もあげるものなどない中で、お礼としてまけないぞうを創ってプレゼントしていたのです。

オリジナルぞうさん_R.jpg

それがきっかけとなり、“つるしびな”を作りはじめて、いまでは岩手県最大の災害復興公営住宅栃ヶ沢住宅で手芸サークル「栃乙女の会」の代表になって手芸を楽しむ毎日です。彼女がいつも口癖のように「本当に津波でたくさんの財産を失ったけれど、それ以上にたくさんの人との出会いをもらったわ。それがいまでは大切な財産になった。」と涙ぐみながら話してくれます。
10年経っても津波のことは忘れることはできない辛い経験ですが、たくさんの人との出会いを育んだのも津波です。

10年前のみんな_R.JPG

「ふきのとうの会」の代表をしていた菊池加代子さんが「当時は、被災者と支援者だったけれど、今では友達です」といった言葉が忘れられません。自然にボランティアという言葉を使わなくなる時は、被災者と友達になった時かも知れません。

数々の作品_R.jpg

今回の訪問は株式会社ラッシュジャパンチャリティバンク様より助成を頂いています。


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2021年06月18日

【東日本大震災】レポートNo.310

【東日本大震災から10年】
まけないぞうを作り続けて〜作り手さんからのお手紙〜NO.1

東日本大震災から今年で10年が経ちました。追い打ちをかけるようにコロナ災害に見舞われた被災地は、再建のあしがかりを失ったように、東北三県では休廃業が増えています。また、復興住宅の空き室も増えコミュニティの維持や維持管理の負担も問題になってきています。菅義偉首相は昨日17日の会見で「東日本大震災から復興を遂げた姿を世界に発信し」と述べたが、被災地はいまだ復興の途上です。特に福島第一原発の事故の処理は終わりが見通せず、被災者取り残されたままです。
10年経ってもいまだ復興の途上にある被災地。あの日あの時に被災者はどう生き抜いたのでしょうか?
岩手県釜石市で被災したまけないぞうの関係者S・Tさんの証言をお伝えします。どうぞ最後までお付き合いください。いま生きているのは当たり前ではなく生かされていることに感謝しつつ・・・。長文ですが、ぜひ最後までご覧ください。     増島 智子

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2011年3月11日、14時46分。
当時私達が住んでいた岩手県釜石市に震度6弱、マグニチュード9.0という大地震が起きた。
私は、釜石市の隣町、上閉伊郡大槌町で仕事をしていた。会社は海からさほど遠くない所にあった。
地鳴りがあったかなかったか記憶はない。
携帯の警告音が鳴ったと同時に、今まで聞いたことのない、言葉では言い表せないほどの音とともに、下から突き上げる揺れに襲われた。
何が何だか分からず、すごい揺れの中、急いで机の下へ。その時、会社内に一人でいたため、ただただ恐怖の中にいたのを覚えている。どれくらいの時間揺れていたのか。すごく長く感じた。もぐっていた机が潰れたため、揺れが少し弱くなったすきに急いでトイレへ駆け込んだ。
ドアが開かなくなると逃げられなくなると思い、ドアノブを掴み隙間を開けたまま、またすぐに来た大きな揺れをやり過ごした。

三陸津波記念碑_R.jpg

恐怖の中頭に浮かんだこと。“必ず津波が来る!”
小さい頃から海のそばで暮らしてきたため、【地震が来たら津波が来る】と教わってきた。
“家に帰んなきゃ”“子供たち迎えに行かなきゃ”2回目の大きな揺れがおさまるあたりに急いで車に走った。
心臓の音が指先まで伝わっているのを感じるくらい、恐怖でハンドルを握った手の震えが止まらなかった。とにかく急いで車を出した。
パニックにはなっていたが、頭は変に冷静で一瞬で色々考えた。
車を走らせながら、まずは学校に行っている子供2人の事。
時計を見ると、いつもなら下校の時間になっている。子供たちの学校へ向かうべきかどうか?
歩いている生徒を一人でも見かけたら、下校した後ということで、子供たちは登下校する道のどこかにいるはずだからその道へ向かおう。
生徒の姿は見当たらない。これはみんな学校に残っている!下校前だったんだ。
学校にいるなら全員で避難しているはず!と確信を持った。
すぐ母に電話したがすでに通じなかった。
家には1歳の息子と、私の母がいた。父が仕事から帰っている時間ではあったが、もし帰っていなかったら目の見えない母と1歳の息子だけ。
学校の子供たちを信じ、まず家へ向かった。
家に着き、玄関のカギを開け父と母を大声で呼んだ。返事なし。父の車はある。
““避難したんだ!””

私はヒールから玄関にあったスニーカーに履き替え、カギをかけて指定されていた避難所へ走った。父・母・息子の姿はない。
何人か避難していたが、そこは高台ではない場所。避難していた人たちに、「ここにいたらダメだよ!高台に避難しなきゃ!絶対に津波が来る!!私は恋の峠に行くよ!」と伝えて、また走り出した。
私たち家族は、地震が来た時の避難場所を〖家から一番近い峠の頂上にしよう〗と話し合っていたので、ためらわずそこへ全速力で走った。
峠の頂上に、父・母・母におぶられた息子がいた。3人の顔を見て一安心したのも束の間、学校の子供たちはどうなっているのだろう。姿が見えない不安と焦りで心臓が爆発しそうになっている。
子供たちの学校は、海からわずか700メートルの所にあったので、避難訓練の時は津波からの避難も想定し行われていた。毎回学校から800メートルも離れた避難場所まで全校生徒で走る訓練をしていた。
私たちが避難した峠は、学校の指定された避難場所へ繋がる道がある。
“子供たちは走っているはず!”“全員で走っているはず!”たくさんの恐怖の中、信じた。
何度も大きな余震で揺れる。地震発生からどれくらいの時間がたったのだろう。
峠から見えていた町の景色が変わる。防潮堤を海の水が恐ろしい速さで乗り越えてきたのだ。私の目の前で何が起こっているのか理解できない。
防潮堤を乗り越えた黒い水は、ものすごい音と速さで建物を破壊しながら町を飲み込んでいく。家という家の姿が目の前から消えて行く。
『津波だーーーーーーーーーー!!!!』
誰も想定していなかっただろう規模の大津波だった。町が消えて行く。
“子供たちはどうなっている?”“私たち助からないかもしれない、死ぬかもしれない”と考えていた。
波が海とは反対側の山に、水しぶきを上げてぶつかっている光景を見ながら、体の震えが止まらなかった。“これは現実なの?”夢を見ているのかと思った。

釜石市立鵜住居小学校・軽トラが学校の校舎に挟まったまま_R.JPG

その時、悲鳴とともに一生懸命に峠を駆け上がってくる子供たちの姿が見えた。“生きていた!!!!!!!”子供たちの後ろまで津波は迫っている。みんな必死に走っていた。頂上まで着いた子たちに順に「大丈夫?」「大丈夫?」と声をかけた。声をかけながら我が子を探した。子供たちでいっぱいになっていく峠。その中に長女が見えた。学校からの長い距離を無我夢中で走ってきたんだろう。3月の釜石はとても寒い。防寒着は着ていなかった。足元を見ると上履き。“走りにくかっただろうに・・・”長女は、「ママー!」と駆け寄った。こわばっている顔。

子どもたちが駆け上がった峠道_R.jpg

当時小学3年生だった長女は、堰を切ったように泣き出した。
「怖かったよね、本当に頑張った。ここまでよく走って来てくれたね。」
さっきまでとは違う感情で体が震える。長女の確認はできた。私はすぐに、当時小学1年生だった長男を探す。探しても見つからない。近くにいる子供たちに聞きながら探した。みんな「わからない。」と言う。先生を見つけて「1年生はどこですか?」と聞いた。先生は「途中まで後ろを走っていたのですが。すみません。わからないです。」と言った。頭が真っ白になる。先生も必死に走ってきたんだろう。“先生がわからないということは、ここに居ないということは。津波に巻き込まれたのか・・・”
“どうしよう。死んだかもしれない。”頭がおかしくなりそうだった。体の震えが増して、立っているのがやっとの状態だった。少しすると、最後の方に上がってきた人が、1年生は走っている途中道の脇へそれたよと教えてくれた。
同じクラスに子供がいるお母さんと私の父と一緒に、探しに行くことにした。
顔を見るまで、生きているのか・・・信じられない。
自分の命よりも大切な子供を、大切な命を失うかもしれないという恐怖。今までに感じたことのない恐怖だった。
峠を下っていると、坂を上がってくる子供たちの姿の中に長男が見えた。
“生きてたーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!”
子供たちの通っていた小学校には、隣接して中学校があった。後に聞いた話だと、
避難時、中学校の生徒が先に走り始め、その後を小学校の生徒が走った。学校から800メートル離れた指定された避難所へ着いたが、今までにない地震の大きさに「ここではダメだ!もっと高台へ避難した方がいい。」という話になったらしく、そこから更に500メートル程坂を上った所にある老人ホームへ向かうことになる。
中学生が小学生を励まし、声掛けしながら手を引き走ってくれた。“自分たちも恐怖でいっぱいだっただろうに・・・”

恋の峠・学校から1600mで海抜44m_R.jpg

集団の最後の方を走っていた体力のない1年生はこのまま道をまっすぐ走っていたら間に合わない、津波はすぐ後ろまで迫っていたため、走っていた道のすぐ脇の、山を切り崩した高台へ登るという事になった。山を切り崩しただけの所だったため、足場は悪く垂直に近い角度の崩れやすい土を踏みしめながら上の方まで上がったらしい。そこへ登る時も中学生が小学生を下から押し上げたり、上から引っ張ってくれた。そこにいた子供たちは全員助かった。自分たちもどうなるかわからない中、自分たちよりも小さい子供たちを支えてくれた。当時伝えられなかった思いを今ここで伝えたいです。《今でも感謝しています。本当にありがとう。》
色々な形でその日は家族に会えなかった人、その日だけではなく、何日間か会えず別々の場所で連絡も取れない不安の中過ごした人もいる。
私たち家族は運命的に同じ場所へ避難したため、地震が起こったその日離れ離れになることはなかった。その運命に感謝したし、とても幸せなことであったと思う。

私たちは10年前の3月11日、1日にしてそれまで送っていた普通の日常生活を失った。住んでいた家・乗っていた車・着ていた服や履いていた靴・毎日遊んでいたゲーム機・いつも一緒に寝ていたお人形やぬいぐるみ・子供たちの成長を撮りためたビデオテープ・思い出がいっぱいの写真・など、失った物もたくさんあった。子供たちの成長を撮っていたビデオテープや写真がなくなったことがとても悲しく辛かった。でも、何よりも大切な命があった。思い出は自分の中にある、いつでも思い出せる。生きていて良かったと心から思う。
その命を守るために、震災天災が起こった時、自分に何ができるのか、どのように行動できるのかを想定しておくことは大切だと思う。そして、普段から何かあった時の連絡の取り方や避難場所を家族で話し合っておくことが大切だと思う。

釜石市立鵜住居小学校・津波当時海抜2m_R.JPG

釜石市立釜石東中学校・津波当時海抜2m_R.JPG

私たちの分岐点だった10年前。簡単には言葉で言い表せない10年間の道のり。震災を経験した人、支援ボランティア活動をしている方たち、自衛隊の方たち、色々な形で支援して下さった方たち、遠い場所から励まし、心配し、支えてくれた家族。それぞれの思いがあっての10年間だと思う。そして、たくさんの人の愛に出会った10年間でもある。私たちは、そのたくさんの愛に感謝しています。
《心からありがとうございます。》
震災を経験してきた私たちだけではなく、10年前、日本中、地球上でそれぞれの形でその時を見つめ、一緒に歩んできたみんな。

きっと私たちにとって、東日本大震災は10年前に起こった事という過去のものではなく、今もこれからも一緒に生き続けて行くものなのだと思う。

多くの犠牲者を出した鵜住居地区防災センター_R.JPG

釜石祈りのパーク・鵜住居地区防災センター跡地_R.JPG
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2021年04月04日

【東日本大震災】レポートNo.309

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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり  
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3月16日、遠野でも「一針一針心をこめて10年〜糸にかけた夢舞台〜」と題して、つるしびな制作指導会の閉講式が行われました。当センターでは2011年3月25日から遠野入りし、10年間の記憶が走馬灯のように頭を駆け巡りました。

遠野閉講式_R.jpg

当時、遠野市社会福祉協議会を中心に地元のNPOやJC、地元ボランティアで作る「遠野まごころネット」の立ち上げのお手伝いをさせて頂きながら、まけないぞうや足湯などを中心に活動を展開してきました。
その後、遠野市にもコミュニティケア型の木造仮設住宅が建設されました。遠野市は交通の要衝でもあり、沿岸地域にそれぞれ約1時間ほどで行くことができます。そんな条件も相まって仮設住宅には、沿岸地域の気仙町、陸前高田市、大船渡市、釜石市、大槌町、山田町など広範な地域から避難してきた人たちが入居していました。
サポートセンター(集会所)には遠野市社会福祉協議会から生活支援員が配置され、ボランティアと連携しながら被災者のみなさんに丁寧に寄り添って来られました。

遠野仮設_R.JPG

まけないぞうやつるしびなをしていたみなさんも10年という長い月日を過ごしてきました。10年の間に遠野に家を再建した人、仮設住宅の材料を使って木造の市営住宅ができ、仮設から市営住宅に移った人、それぞれ故郷から離れたものの、「遠野はいいところだよ。津波の心配はないし」とそれぞれ終の棲家での生活をスタートしました。

市営住宅_R.JPG

この間、多くの方が遠野を訪れ、支援活動を行い、モノづくりを通してたくさん交流が生まれました。被災者も支援者も支える支えられるという一方通行の関係を超え、お互いに支え合い、励まし合う関係が生まれました。“モノ”って不思議な力があります。その“モノ”を介して、お互いの想いが交流し、人間関係が深まっていくのです。閉講式に参加されたみなさんお一人お一人感想を述べてくれました。

〜作り手さんの感想〜
〇震災前に鬱になり、震災後も仮設ではみんなが集まるところへは行けなかったし、なにか人前で話してと言われても絶対にできなかった。人と話すのも怖かった。
最初に「まけないぞう」を作って、加代子先生に「大丈夫。大丈夫。これ(作品)が宝物だよ」と言われて、できるようになった。本当に遠野っていいところだな。こんないい人たちもいて。これからも終わらずにご指導ください。

〇裁縫は苦手だけれど、みなさんに支えられて作ることができました。震災でたくさんのものを失ったけれど、みなさんからたくさんのものを得ることができました。

〇“モノ”を作っていると、何も考えずに夢中になって、心が癒されました。

ありがとう_R.jpg

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〜ふきのとうの会のメンバー〜
〇この震災でボランティアが初めてで、わからないこともたくさんあったけれど、遠野でボランティアの芽が開花したと思います。初めてのボランティア活動で何もわからなかったけど、まけないぞうやつるしびなの活動をして、みなさんからたくさんのことを教えてもらいました。
〇「私もこうして、みなさんのお陰で参加することができました。」
〇「みなさんとは、5年間のお付き合いでした。ひなまつりや日帰り旅行とか楽しかったです。これからも近いのでみなさんとお付き合いしていきたいです。」

ご挨拶_R.jpg

〜ボランティアさんの感想〜
〇「10年目にしてはじめて被災地に来れました。知らなかったこともたくさん知ることができました。」

津波にすべてを奪われ、何もかもをなくし、0よりマイナスからのスタートとなり10年。なんとかここまでたどり着きました。みなさんやっと終の棲家をみつけ、「ここ遠野に来て、やさしい遠野のみなさんに囲まれて、私はいま幸せです」という言葉を聞いて少しほっとできました。
                                 (増島 智子)

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2021年03月24日

【東日本大震災】レポートNo.308

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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり  
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 久しぶりの岩手訪問で、たくさん会いたい人、お話したい人がいます。ご夫婦で沿岸から遠野市に移り住んで10年。沿岸に比べると冬は寒くて、夏は暑いとよく言われる遠野市ですが、神戸と比べたら、冬の寒さは厳しいですが、夏はクーラー要らずで、自然豊かな土地です。四季折々の風景は、忘れかけた日本の原風景としてあちらこちらに残っています。

眼鏡橋冬_R.jpg

 10年前、釜石市の鵜住居で津波に襲われ、命からがらに逃げたご夫婦は、遠野の仮設で数年過ごした後、そのまま遠野市内に中古の家を購入し、2人で仲良く暮らしています。
ご主人は避難した高台から一変した町の風景を眺めていた時「あの当時、たくさんの“ガレキ”をみて、一体いつ片付くんだろうかと思っていた時に、下を走る道路に高槻の消防車や大阪の救急車などが走ってきて『よし!これで大丈夫だ!』と思ったよ」と涙ながらに話してくれました。壊滅的な被害を受け途方に暮れる中で、応援車両は被災地のみなさんの希望の光として映ったに違いありません。国内のみならず、海外からもたくさんの支援が届きました。
ご主人は続けて、「あの津波で世界170ヶ国からの支援してもらったんだ。インドのニューデリーからも支援に来てくれて、小さな子どもたちが、靴磨きをしてためたお金を寄付してくれたんだ!そんなお金を無駄にはできない。」と涙ながらに話してくれました。いまの被災地の復興の在り方をみて語気を強めました。
海は防潮堤が町を取り囲み、町には不似合いな大きな建物が立ち並び、空き地が目立ちます。これが本当に住民が求めていた復興なのでしょうか?

お父さん_R.jpg

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 ご主人は「いつか故郷の虎舞をお世話になった遠野で披露したい」と笑顔で語ってくれました。いつかこの夢が実現できる日を心待ちにしています。
               (増島 智子)
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2021年03月12日

【東日本大震災】レポートNo.307

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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり  
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3月11日、あの津波から10年の月日が流れました。犠牲になられた方たちは行方不明者、関連死も含めると2万2192名となります。犠牲者のみなさんには心よりご冥福をお祈りするとともに、行方不明者の方が一日でも早くみつかりますように願ってやみません。
午後2時46分、遠野市の復興住宅の脇にある公園で行われた追悼式に参加しました。

遠野NO1_R.jpg

あの日、大槌町から遠野市まで歩いて山を越え、助けを求めにきた被災者の方がいました。「沿岸が大変なことになっている」と。そして、遠野市は後方支援として沿岸にボランティアを派遣し、長期間の支援活動が始まりました。
私達も、遠野のみなさんを中心にボランティアとともに避難所、仮設住宅、復興住宅などを訪問しまけないぞう作りをしてきました。
 まけないぞうは今までの被災地では少し落ち着いた頃の仮設住宅からスタートすることが多かったのですが、今回の東日本大震災では避難所からのスタートでした。まだまだライフラインや物資も不足する中での活動には、正直躊躇するところもありましたが、被災者のみなさんがまけないぞうを作りながら、「久しぶりに針を持ったわ。」「今日は頭を動かしてよく眠れるわ!」「ずっと津波のことを考えていたけれど、夢中になって津波のこと忘れることができたわ」などの感想を話してくれました。それから不安は消え去りました。

2011年当時の作り手さんのメッセージを紹介します。
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美容師として仕事をし、9年前に念願だった店舗を構え、美容室を経営していましたが・・・この震災で何もかもきれいさっぱり波にのまれてなくなってしまいました。避難所での生活は今まで味わったことのないくらい悲惨で、人間関係に苛立ち、泣きながらの毎日でした。そんな時、このまけないぞうに出会いました。もともと裁縫は苦手ではなかったので、やっているうちに楽しさを覚え、何も考えることなく時間を過ごし、いろんな人と出会い、何より仕事を失った今では少しでも家計の足しに…。時には自分のお小遣いなーんて!まけないぞうに出会えて本当によかったと思っています。今では子ども達も手伝ってくれるんですよ!まけないぞうがんばって作ります
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こうして、この10年間、被災者のみなさんに寄り添い、ともに歩んできたまけないぞう。辛いことばかりではなく、楽しいこともたくさんありました。多くの人たちとの出会いが被災者の人に元気と勇気を届けてきました。

10年経ったいま、町の景色は様変わりしました。被災地は盛土による造成地が広がり、海にはコンクリートの要塞のような防潮堤が立ち並び、復興道路という名のもとに山は削られ、行き場を失った獣が町を闊歩しています。造成地を作ったものの空き地が多く、昼間でも町を行きかう人はまばらです。

片岸 (1)_R.jpg

片岸 (2)_R.jpg

「こんなはずじゃなかった。まるで変っちゃたよ」という被災者の言葉がむなしく響きます。コロナ禍により一層問題は深刻化しています。せっかく再建を果たしても、コロナの影響で漁師は漁獲量が減り、旅館は宿泊客が激減し、商店も売り上げが減少するなど、2重3重にも被災者に追い打ちをかけています。
10年目にして「これからが本番だよ」という被災者の言葉を噛みしめながら、私たちにできることを今後も続けていきたいと思います。どうぞこれからもよろしくお願い致します。
(増島 智子)

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