被災地NGO恊働センターです。
地震に先遣隊として被災地に入った武久真大のレポートです。
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武久のレポート〜米沢より〜
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『神戸とも、違うんだ。』
南相馬から避難してきている30代のKさん。
奥さんと小さな子ども2人の4人で、ここ米沢に避難してきている。
よく足湯に子ども連れで来てくれて、
足湯以外のところで会ったときもついつい長話をしてしまうおとうさんだ。
子どものことを考え、避難当初から、
内陸だから家は残ったけど、もう福島には戻らねぇ。と言っていたし、
原発の動向も事細かくチェックしているようだった。
ある日、KさんとKさんの生活スペースでお話していたとき、ぽろっと、
この避難所に、いつまでいられるんだろうなぁ、とつぶやいた。
私が神戸から来た、ということは認識してもらっていたので、安心してもらおうと、
神戸の避難生活も長期化しましたし、
そんなにすぐに出ていかないといけないことにはならないと思いますよ。
と伝えると、Kさんの様子が変わった。
それは神戸の場合でしょ?神戸のときと、違うんだ。
神戸はたくさん家をなくしたひとがいたから、そうだっただけで、
確かにこの避難所にも、家をなくしたひとはいるけど、
そういうひとたちと俺らは違って、家があるんだもん。
いつ帰れ、って言われるか分からない。
そう言われ、私にはそれに答えられるだけの言葉を持ち合わせてはいなかった。
そこからあふれ出した、原発への不安・不満、これからの生活の不安の言葉の数々を、
ただただ、受け止めることしかできなかった。
福島の数多くの自治体から避難してきている、米沢市の避難所。
米沢に限らず、福島から避難しているひとが集まる避難所では、
ひと世帯、ひとりごとに、抱える状況は大きく異なる。
津波被害にあったひと、津波の被害はなく家が残っているひと。
原発から半径20キロ圏内のひと、そうでないひと……。
よりそい方も、またひとつひとつ、たくさんのあり方が必要なんじゃないだろうか。
分かりきったことであろうに、全然分かりきっていなかったことだった、と
当たり前のことが、当たり前のこととしすぎて、
当たり前になっていなかったこと、恥ずかしく思う。
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