2011年05月12日

【東日本大震災】レポートNo.85

被災地NGO恊働センターです。
地震直後から先遣隊として被災地に入った吉椿雅道のレポートです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
吉椿のレポート〜米沢より〜
………………………………………………………………………………………
福島県の各町から避難して来た人々の避難所である米沢市営体育館には当初、約600名の人々が体育館のアリーナに所狭しと身を寄せ合って暮らしていた。約2カ月を経た今、アリーナに残る人々は数十名とごく僅かだという。だだっ広いアリーナに寂しさが漂う。

 福島からバラバラに避難して来た人々が体育館での共同生活を経て、現在、雇用促進住宅に入居されたり、温泉施設に身を寄せたりして、再びバラバラになった。
 ある人はより良い環境を求めて、ある人は子ども達の学校の為に、ある人は仕事の為に、
ある人は遠くの身寄りを頼って、ある人は故郷へと、皆それぞれの想いを抱え、避難所を後にした。
そして、体育館に残る人々もそこに残らなくてはいけない何らかの理由でそこに留まっている。行き場所の見つからない人々、身寄りのない人々、皆それぞれの想いで未だ避難生活を送っている。

避難所にいれば、救援物資や様々な情報も入っていたが、雇用促進住宅や賃貸アパートなどの二次的な避難場所では物資や情報も非常に限られてくる。それと同時に人と人のつながりも限られてくる。
1995年の阪神淡路大震災後、県外にバラバラに避難された方々が見知らぬ土地での孤立を防ぐ為に月数回のお茶会や年中行事などを企画して、「久々に関西弁を話したわ〜」と被災者同士で帰られない神戸に想いを馳せてもらうようなボランティアをさせていただいた。

2004年の中越地震の後も仮設住宅や復興住宅に入居して、プライベートな時間、空間を得る事は出来たが、一部では「避難所や仮設の時の方が、皆がいてよかった。寂しい。」という声が少なからずあった。
顔見知りのいない新しい土地で暮らす為には仕事はもちろん、地域や近所とのつながりなしにはあり得ない。また、同じ境遇である被災者同士が集う場所、時間も必要になってくるだろう。

避難所を出たからそれで終わりではなく、そこから一人ひとりにとっての長い長い復興の道が始まる。時には厳しい現実にも向き合わざるを得ないだろう。そんな時に隣にいて話をじっと聴く人も必要だろう。また、一方で避難所に未だ残る人々が行き場を見つけ、「最後のひとり」が、笑顔でそこを後にするその日まで見守っていく人も必要だろう。

………………………………………………………………………………………



posted by 被災地NGO恊働センター at 10:17| 被災地からのレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月11日

【東日本大震災】レポートNo.84

被災地NGO恊働センターです。
地震直後から先遣隊として被災地に入った吉椿雅道のレポートです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
吉椿のレポート〜大船渡市より〜
………………………………………………………………………………………
「津波てんでんこ」という言葉をご存じの方は多いと思う。津波の時はてんでんこ(てんでバラバラ)に逃げるという言い伝えであるが、人を助けようとして逃げ遅れて、一家共倒れになった過去の教訓からひとりでも生き残れという過酷な現実を表している。この東日本大震災でもこの言葉が再びささやかれるようになった。

 三陸海岸に伝わるこの「津波てんでんこ」を伝え続けてきた津波研究家の山下文男さん(87歳)には5年前に「いのちを守る智恵」の取材の為、山下さんの故郷、大船渡市綾里でお会いした。海を眺めながら山下さんにご自身の昭和三陸津波の体験や津波の怖ろしさなどのお話をお聞きした。その晩、綾里のホテルの窓から聞こえてくる波の音に何とも言えぬ恐さを感じた事を思い出す。
 2011年3月11日、山下さんは、病気を患って陸前高田の病院に入院されていた。地震の轟音からまもなく4階の病室の窓を割って浸入した水に押し流されそうになったが、必死にカーテンに捕まって、九死に一生を得たそうだ。

 明治三陸津波(1896年)で祖母を失くし、昭和三陸津波(1933年)では小学生で自分を置いて逃げるお父さんとは別に、自力で逃げきった。「津波が来たら、てんでんこや。誰かれ構わず逃げろ!」というお父さんの口癖をずっと聞いてきた事が幸いした。
今回の震災で山下さんの故郷、綾里も津波のよって大きな被害を受けたが、人的な被害はひとりもなかったという。「津波てんでんこ」という言い伝えがそうさせたのだろう。大切な家族をも置いて逃げなくてはいけないという非情の教訓「津波てんでんこ」によって助かった人々も多いが、究極の選択を迫られ、生き残った人々は、今、どんな思いで生きているのだろう。

………………………………………………………………………………………

posted by 被災地NGO恊働センター at 10:18| 被災地からのレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月07日

【東日本大震災】レポートNo.82

被災地NGO恊働センターです。
連休中に入られた被災地NGO恊働センターボランティアSさんによるレポートです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
トピックス
……………………………………………………………………………………
本日、陸前高田市の上和野公民館でもまけないぞうづくりが始まりました!
姫路のお母さん方が集めてくださったおもちゃもそちらで配られました。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Sさんのレポート〜遠野より〜
……………………………………………………………………………………
5月の大型連休に入り、遠野まごころネットには多くのボランティアが全国各地より駆
けつけています。ピーク時には700名に迫る方々が登録されました。朝8時から全体
朝礼と行き先調整が行われ、バスに分乗し被災地へそれぞれ向かいます。私は「ま
ごころ広場うすざわ」での足湯に参加をする予定でしたが、強風により中止となったた
め急遽、近くの保育園の清掃作業に参加をすることになりました。

その保育園ではお昼寝時間がちょうど終わる頃地震が発生し、これまでの避難訓練
の甲斐もあって先生たちは子どもたちのパジャマの上からジャンバーを着せ、すぐに
近くのコンビニまで避難をされたそうです。そこで津波が町を襲うのを目の当たりにし、
更に高台へと避難されました。一緒に避難した子どもたちを全員家族へ引き渡したの
は3日目だったそうです。

被災者でもある先生たちは、皆で協力しながら災害後から保育園へ来て泥出しや片
づけをコツコツとなされていました。しかし、保育園は津波が2メートル近く浸水してお
り、教室も地下の収納ボックスも泥だらけです。偶然まごころネット関係者へ、その話
をされたために、ボランティア派遣のことを知られたそうです。お願いをした翌日には
40名近いボランティアが保育園へと清掃に入りました。みるみるうちにきれいになって
いく園内を見られて、「人の力ってすごい」と涙されました。

被災地の泥出しや清掃は果てしない作業です。それをきれいにしたところで本当に
そこがその後使用できるのかもわかりません。でもそこにはどこにでもあるくらしの風景
が災害前にはあったはずです。保育園の壁に貼られた給食献立表や壁新聞からそう
いったくらしを垣間見ることができます。本当に小さな力ですがそういったくらしを取り
戻す作業に携われたことに感謝をし、ボランティアの力のすごさをみさせていただい
た連休でした。

………………………………………………………………………………………
posted by 被災地NGO恊働センター at 18:49| 被災地からのレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月06日

【東日本大震災】レポートNo.81

被災地NGO恊働センターです。
地震直後から先遣隊として被災地に入った吉椿雅道のレポートです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
吉椿のレポート〜米沢より〜
………………………………………………………………………………………
ボランティアとして岐阜から米沢に駆けつけてくれたYさんが、足湯で出会った一人の少女の話。
Mちゃん(18歳女性)は、高校三年生。お母さんと二人で米沢に避難して来て、足湯の水くみなどの手伝いもしてくれる。

「家族が皆、生きていてよかった。」と言って、津波の時の事を話し始めた。地震の時、自宅にいたMちゃんは自宅の500m先まで津波が来たのを見たという。「最初の波が一度引いて、その後、すごい大きな波が来て、すべてを飲み込んじゃった。。」と語った。その後、友達が亡くなった事を知って、「言葉がでなかった。」というMちゃんは、過去の痛みと同時に未来の不安を抱えている。

「いつも家族でケンカばかりしているけど、この避難所に来てからは家族で支え合っていこう。」と家族で話したそうだ。すでに就職が決まっていたMちゃんは、「その会社がどうなっているのかも分からないし。。。」と言って、「自分が支えなければ。」と別の仕事を探す事も考えている。
先の見えない不安を周りに悟られないようにしながら明るくボランティアをするMちゃんだった。

………………………………………………………………………………………

posted by 被災地NGO恊働センター at 14:08| 被災地からのレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【東日本大震災】レポートNo.80

被災地NGO恊働センターです。
地震に先遣隊として被災地に入った武久真大のレポートです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
武久のレポート〜米沢より〜
………………………………………………………………………………………


『あるひとりのおんなのこ。2』


南相馬市原町区から避難してきているMちゃん。18歳。

早く家に帰りたい、と口癖のように言っていたが、
ひとまず1ヶ月は米沢にアパートを借りて住むことにしたようだ。

避難所で隣同士だった、はとこの家族は東京の親戚の家に行くことになった。
それぞれが次の生活を見据えて行動を決めていっている。
右も左も分からない土地に避難してきて、知り合いもいない米沢で、
同年代として話すことができていたひとと、また離れ離れになる。

そりゃ淋しいよ、とこころの底からそう思う、と言わんばかりにつぶやいた。

Mちゃんが避難所を出て行く前日。
私は、友達は狭く深くがいいんだ。だからあんまり連絡先とか交換しないの。
と言っていたMちゃんが、Mちゃんの方から
米沢の仲間のひとりと連絡先を交換していた。

おいしいケーキ屋さんに連れて行く約束を交わしながら。

福島から避難してきたひとたちからすれば、縁もゆかりも無い、
右に行けば何があって、左に行けば何があるかも分からないまちで、
先行きがどうなるかなんて分からないまま、暮らしていく。

外のひとから分かりやすい避難所の避難者から、
一見では分かりづらい、居宅に移っていく。

地元から遠く離れた地で、何を思い、何を考え、何に苦しみ、何に悩むのか…
ひとりでも多くの、そうしたひとたちの声を聴くにはどうしたらいいのか。

そんなひとに対して支援者は何ができるだろうか。

………………………………………………………………………………………
posted by 被災地NGO恊働センター at 09:48| 被災地からのレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする