2011年04月22日

【東日本大震災】レポートNo.64

*複数のMLに配信しておりますので、重複はご容赦下さい。

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NHKで22日夜8:00から下記の番組が放映されます。
ぜひ、ご覧下さい。

※以下、NHK大阪のサイトよりのコピーです
http://www.nhk.or.jp/osaka/program/kansai_tokushu/

4月22日(金)
「今こそ、力が問われるとき〜神戸発・災害NGOの挑戦〜」

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被災地NGO恊働センターです。
地震直後から先遣隊として被災地に入った吉椿雅道のレポートです。
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吉椿のレポート
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2006年夏、「いのちを守る智恵」という本の取材のために宮古市や大船渡市などを訪れた。
その中でも宮古市田老町(人口約4400人)を歩いた時の事は今でも忘れる事が出来ない。

この田老町では、明治三陸津波(1896年)で1859名、昭和三陸津波(1933年)で約911名の
尊い命が犠牲になった。1960年のチリ津波では、田老町は幸い犠牲者を出さなかった。それ
は昭和の津波以降の様々な防災の智恵による。
黒々とした松の防潮林、「万里の長城」と称される総延長2.4km、高さ10mの日本一の防潮堤、
町の避難路はすべて高台に向かい、「隅切り」と呼ばれる十字路の見通しの確保など二重三
重に防災の工夫が施されている。また、避難訓練を兼ねた町民の運動会、全戸にあった防災
無線、高台にある役場には最新の津波監視カメラもある。そして昭和三陸津波後、復興事業
で被災者を雇用した事など様々な智恵と工夫を使って、田老町は復興を果たして来た。

だが、この東日本大震災では、田老町も死者129名、行方不明71名、多数の家屋流失と大き
な被害を出した。高さ10mの防潮堤を越えて来た津波は、37.9mに達し、過去最大級であった
という。まさに「想定外」であった。
田老の「防災バカ」を自称する市職員のYさんは、地震後、必死で住民を高台に避難させた。
地震から約2週間後にようやく連絡が取れ、「何とか大丈夫です。」と言ったが、その声に力は
なかった。これまで津波防災に人生をかけて来ただけにその落胆は想像に難くない。

津波防災宣言の町、田老の様々な智恵や工夫がどこまで生きたのか、今後の検証が待たれる
が、この田老の様々な防災の智恵は、すべて昭和三陸津波後、住民が高所移転ではなく、海
のそばで生きる事を選択した事による。
現在、田老では住民によって今後の暮らし方が再び議論され始めている。

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posted by 被災地NGO恊働センター at 09:43| 被災地からのレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月21日

【東日本大震災】レポートNo.63 -村井代表より-

被災地NGO恊働センターです。
4月22日午後8時、NHK かんさい特集「今こそ、力が問われるとき〜神戸発・災害NGOの挑戦〜」に当センター代表の村井が出演します。

今回は村井代表のレポートを紹介します。

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4月15日のレポートNo.55でも触れましたが、当センターでは、今後、被災者の「仕事づくり」が重要になってくると考えています。このことに関して、今日は、岩手県遠野市で炊き出しボランティアをしてきたHさんの話を紹介します。

現在は東京でタクシー運転手をされているHさん。以前は、ある企業の社員食堂で料理人として働いていました。実は、16年前の阪神・淡路大震災の時に、東京からボランティアとして神戸に駆けつけ、その腕前を生かして炊き出し活動を行った経験があります。今回は、既に現地で活動していた日本青年会議所のTさんと一緒に、3日間遠野市を拠点に沿岸部の避難所などを回り、炊き出し活動をしてきました。
昨夜の夜行バスで東京に戻ったHさんにお話を伺ったところ、次のような話をしてくれました。「釜石市で被災したある食堂の店主に会ってお話を聞いたのですが、その方もご自分の料理人としての特技を生かして、炊き出しを是非手伝いたい、とおっしゃっていました。仕事をしたいという気持ちを持っている方が、多いのではないでしょうか。」

当センターが後方支援拠点としている遠野市に建設されたボランティア宿泊施設『まごころ寮』の食堂で働いているコックさんも、被災地の食堂でコックをされていた方です。
これは取り組みとしてはほんの小さな一歩ですが、今後、被災地の方々が生活を立て直して行くには、雇用の創出ということが大事になってきます。仕事を持つことによって、被災されたお1人お1人がそれぞれ、将来への希望やビジョンを描けるようになってほしいと思います。そのためにも、これから被災者の‘仕事づくり’につなげられる活動をしていく必要性を痛感しています。

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posted by 被災地NGO恊働センター at 16:57| 被災地からのレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【東日本大震災】レポートNo.62

被災地NGO恊働センターです。
地震に先遣隊として被災地に入った武久真大のレポートです。
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武久のレポート〜米沢より〜
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「ラッキーストライクの笑顔」

避難所の中ではいろいろな居場所ができる。
足湯もしかり、子どもの遊び場もしかり。

そんな居場所のひとつが、肌寒い避難所の外にある。
体育館入口に設置された灰皿。それを囲んで、たくさんのお話が飛び交う。
テレビの前やコーヒーを飲んでるときとは、またちょっと違う顔を見せてくれる。

いちど、テレビの前でご一緒したAさんもその中のひとり。
どうもと、とことこ近付いて、自分のタバコに火をつける。

こういった場面以外ではもう吸わないけれど、
タバコが吸えたらこういうとき、便利だ。

Aさん、普段からその銘柄なんですか?
ちょっと印象と違うのを吸っていたので、聞いてみた。

いや、いつもはあんまりない銘柄だから。
探したんだけど自販機にしかなくて、でもタスポ持ってないから買えないんだ。
ま、でもこんなときにそんなわがまま言えないからね。吸えるだけありがたいよ。

Aさんはそう言って、2本目に火をつけた。

次の日、どうやら裏路地にたくさんタバコを売っている、
小さなタバコやさんがあるということを聞いたので、聞いて回ることに。

地元の子にも聞いたのだけれど、分からず…。
結局、灰皿のところで情報通のおねえさん、Fさんに場所を聞くことができた。
なんでか自分のところに情報が集まるのよねぇ、と少し笑顔を浮かべながら。

また後日、Aさんに会えたときに、そのタバコやさんの話をすると、
タスポを借りて買えたんだ、と

いつもの銘柄って言っていた箱を2つ、見せてくれた。
そのときの、Aさんの少しいたずらっぽく、満足げな感じの笑顔。

先の見えない避難生活の中で、
こうして、自分の生活をひとつひとつ、取り戻していくこと。

それってわがままなように見えるかもしれないけど、
きっと本当は必要なことなんだろうな。

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posted by 被災地NGO恊働センター at 10:29| 被災地からのレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月20日

【東日本大震災】レポートNo.61

被災地NGO恊働センターです。
先遣隊として被災地に入った武久真大のレポートです。
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武久のレポート〜米沢より〜
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「そのひとにとっての 2」

足湯の合間に、足湯の声かけにまわる。
固くなったおにぎりを食べようとしているおばあちゃんを見つけ、声をかける。

良かったらあったかいお茶どうですか?今淹れてるので、と
お茶を持って行ったついで、足湯のお茶菓子だったお団子も持っていく。

わたし、お団子とても好きなの。じゃあお団子の方食べるわ。
あったかいお茶とお団子。おばあちゃんの顔がほころぶ。

そのまま足湯にお誘いして、足湯をする。
82歳、原発から20キロ圏内、浪江町出身のYさん。
畑まで原付で通っている元気なおばあちゃんだ。

女の人がバイク乗ってもいい、ってなったらすぐに免許取ったんだよ。
足湯ではそんな風に、今までの生活をおもしろおかしく話してくれた。

足湯が終わって、もうひと串、お団子を食べる。あたたかいお茶と一緒に。
孫、ひ孫に悪いわ、と言うのでお孫さんたちの分も1パック渡すことにする。

帰り際、そんなYさんがぽろっと、ひとこと、一言、こぼしはじめた。

地震があったとき、まだYさんのだんなさんの49日法要が済んでなかった。

だから、まだ夫は(壷に納まったお骨で)家にいて。
でも自分では動けないから、大事に抱えて家から出た、って。
地震のとき、真っ先にかけよって、大事に大事に一緒に避難してきた、って。

前の避難所では大事に毛布にくるんで、見られないようにして一緒にいた。
けど米沢に来てからは、一緒にいられないということで車の中にいてもらってる。
寒いところで申し訳ないから、毎日会いに行ってる。申し訳ない。

涙を流しながら、そのひとにとっての、家族のお話をしてくれた。


地震はいつやってくるか分からない。臨月の状態で避難してきた方もいる。
それと同様に、こうしたお話も、本当はもっとたくさんあるのではないだろうか。

目に見えるものだけが全てではないんだと、Yさんの涙は教えてくれた。

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posted by 被災地NGO恊働センター at 17:25| 被災地からのレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【東日本大震災】レポートNo.60

先遣隊として被災地に入った武久真大のレポートです。
「風評被害」について考えさせられるものがあります。
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武久のレポート〜米沢より〜
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山形県米沢市。
吉椿さんのレポートでも説明されているとは思うが、ここに福島県から、
福島第一原発から半径20キロ圏内にあり避難指示を受けたひとと、
その周辺から自主避難してきたひとたちが今も避難生活を続けている。
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『ラスクとデッキシューズ 1』

避難所の中ではいろいろな居場所ができる。
足湯もしかり、子どもの遊び場もしかり。

そんな居場所のひとつがコーヒー。
喫茶店のひとが道具と豆を持ってきて、避難所のひとに振舞う。

振舞われるペースはまちまちだが、
コーヒーが振舞われるときは長蛇の列。
やはり寒い避難所で、あたたかい飲み物はありがたがられるようだ。

そのコーヒーを出している横に机とイスを置いてみる。
ほとんどの方は自分の生活スペースに持って行かれるが、
たまに座ってお話ができたりする。

このお話は、ある日、そこでのひとこま。
南相馬市 小高区で農家をしているおにいさんと、
同じく南相馬市の原町区に住むそのいとこ。

農家のおにいさんは、やはりこれからの農業の心配をしていた。
土壌汚染がどうだろう、農業を続けていけるのだろうか、と心配そうにお話された。
風評被害はやっぱり怖いとおっしゃった後に、親戚に聞いた話だけど、と続いた。

福島市から関東の方に避難した親戚が東京まで避難し、
何日かぶりのお風呂に入ろうと銭湯に行ったんだけど、
そこで福島から来たのかと確認され、それなら放射能のことがあるからと入店を拒否されたんだそう。

そんな風評被害がもう既にあるんだ。
だから土壌汚染も怖いし風評被害も怖い。
どうしたもんか、とおにいさんは深いため息をついた。

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posted by 被災地NGO恊働センター at 11:47| 被災地からのレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする