2011年04月19日

【東日本大震災】レポートNo.59

地震直後から先遣隊として被災地に入った吉椿雅道のレポートです。
津波で大きな被害を受けた宮城県名取市の姿です。
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吉椿のレポート〜宮城より〜
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宮城県名取市も6号線(仙台東部道路)から東の沿岸部は津波で壊滅的な被害を受けた。特に壊滅的になった閖上地区に再訪した。地震の翌日に閖上に入った時からすでに10日が経っていた。約870人の被災者の人々が、一晩、孤立状態になった閖上小学校を再び訪れた。泥だらけの体育館には自衛隊が拾い出したと思われるアルバムや写真、位牌、ランドセル、賞状などの品々が集められていた。現在、多くの被災者の方々が、「思い出」を探すためここに戻って来ているという。
 
小学校裏手の民家で家の片づけをしているご夫婦に出会った。その表情から精魂尽き果てた様子がうかがえた。築10年も経っていないという自宅の1階は、壁には大きな穴が空き、津波による泥とガレキが散乱していた。「夫婦二人じゃ、いくら片づけてもねえ。」と言う奥さんに、名取にもボランティアセンターが立ちあがっている事を伝えると「ボランティアさんが手伝ってくれるの?」とボランティアの存在さえも知らなかった。そのすぐ後、活動を終えたボランティア達に遭遇した。名取市内、県外から来た人達は、ボランティアセンターの派遣で自宅の片づけを行ったという。被災者が自らボランティアセンターに申し込みに行けば、派遣してくれる事を再度ご夫婦に伝えた。

現在、多くの被災者の人々が、連日自宅に戻って、家財道具を処分し、泥をかき出し、必死に片づけを行っている。皆さん、「またここに戻って住もう。」という一心で目の前のガレキや泥と格闘している。だが、閖上のように海抜0mで残った建物が僅かなところで、自分の家は残ったとしても周りは何も無くなってしまったところで、新たに町を興せるのだろうか。そして津波の恐怖を知ってしまった人々は、またそこに戻りたいと思うのだろか。そんな疑問が頭をよぎった。

だが、一方で、南三陸町のように一時も自分の故郷を離れたくないという事から別の町への一時避難もなかなか進まないところもある。宮古市の漁師親子のように、気仙沼のカキ養殖のHさんのように、また海を生業に生きて行こうと決意した人々もいる。政府と有識者による復興構想会議が動き始めたが、被災者ひとりひとりの小さな声が反映される復興を切に願う。

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2011年04月18日

【東日本大震災】レポートNo.58

地震直後から先遣隊として被災地に入った吉椿雅道のレポートです。
米沢の避難所の様子です。
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吉椿のレポート〜米沢より〜
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被災者の人々は、同じ避難所にいても被災状況が違うことによって様々な場面で気を遣っている。
南相馬市から米沢に避難して来たAさん(40代男性)は、避難所に設置されたカフェでコーヒーを飲みながら、「家が流された人もいるから、家の残った俺達は恵まれている。だから逆に申し訳なくて。。。」とこぼす。
また、「いきなり子どもが、もう終わりだ!って泣き始めたりするから親達がしっかり強気持ちを持っていないと。」と異様に興奮する子どもの様を見て思ったという。
 
避難所で家族や隣人さんにも気を使いながら暮らしているAさん。カフェや足湯やお茶サロンにふらりとやって来てボランティアに思いをこぼして帰る。避難生活が長期化すればするほどそんな場と人が必要である。そんなAさんの声にそっと耳を傾けているのは、ボランティア初経験の21歳の女性である。ただそばにいて話をじっと聴く。そんな当たり前の大切な事を初めての若いボランティアがやっている。

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2011年04月17日

【東日本大震災】レポートNo.57

「まけないぞう」作りと足湯を行っている増島智子さんのレポートです。
被災地からも少しずつ、明るい声が聞こえてきたようです。
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増島智子さんのレポート
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今回は阪神・淡路大震災からずっと神戸を応援し、震災がつなぐ全国ネットワークの加盟団体でもある「とちぎボランティアネットワーク」
の事務局長・矢野さんからぜひ、栃木県の避難所でもまけないぞうづくりをしたいという申し出があり、栃木にお邪魔をさせてもらいまし
た。案内してくれたのは、山本さんご夫妻でした。とても活動的なご夫妻で、こちらが気をいただきました。

そして、足湯隊のボランティアのみなさんが毎日のように避難所で活動されていて、それに同行させてもらいました。足湯も大好評でした。

場所は栃木県鹿沼市にある避難所、鹿沼フォレストアリーナに訪問しました。避難者数は150名くらいで、当初は400〜500名くらいいた
そうです。避難者は福島県の飯舘村、相馬市、大隈町の人たちがほとんどでした。

まけないぞうを作ってくれた被災者の方は、飯舘村の人でしたが、今回の避難では、部落ごとではなく、バラバラに避難させられたので、
今度は部落ごとに避難したいとおっしゃっている人がいました。
このことは、神戸の震災でコミュニティごとの移住ができず、被災者が孤独に追いやられ、「孤独死」という悲しい最後を迎えた人がたくさ
んいたので、今回の被災地でも、同じ過ちを繰り返さないように、被災地KOBEから提言したい大きな事柄です。

また、週明けには、子どもの学校(入学式・卒業式)があるから、福島に帰る人もいたのですが、一時的なもので、次の避難所は未定だそ
うです。

情報がはっきりしないから、生活設計がたてられない状態で、被災者の方も対応に苦慮されていました。

まけないぞうづくりでは、「私のぞうは耳が大きいなあ」、「私のは鼻が曲がってるわ、性格が曲がってるからかしら」、「私のは鼻がずいぶ
ん立派になってしまったわぁ」などなど笑いながら話が弾み、針を運ぶ手も軽やかでした。最後には「部屋に戻ったら、タオルがいっぱい
あるから、練習して、みんなを誘うわ〜」と「針山がないから、ここらのボランティアさんに米ぬかを分けてもらって、作るわ」と張り切ってく
れました。米ぬかを使うと針が錆びにくいからということでした。さすが先輩たちです、いろんなことを教えてくれました。ここ栃木県からもま
けないぞうの輪が広がり始めました。お近くの方はとちぎボランティアネットワークにお越しください。みなさん、栃木も目を離せません
よ・・。
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posted by 被災地NGO恊働センター at 11:32| 被災地からのレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月16日

【東日本大震災】レポートNo.56

先遣隊として被災地に入った武久真大のレポートです。
長引く避難所生活のなかで、気分は沈みがちになります。
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武久のレポート〜米沢より〜
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山形県米沢市。
吉椿さんのレポートでも説明されているが、ここには福島県から、
また福島第一原発から半径20キロ圏内にあり避難指示を受けたひと、
その周辺から自主避難してきたひとたちが今も避難生活を続けている。
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『そのひとにとっての』

避難所での足湯。
足湯の場では、ひとの数だけ、たくさんの言葉が想いが出てくる。

原発から半径20キロ圏内にある浪江町から来られたKさん。
家は津波の被害を免れたが、その後の原発による避難指示で米沢まで避難してきた。

避難するときは、まぁすぐ帰ってこられるだろうと思っていたそうだ。
そのときに、飼っている犬をつないだままにしてしまった。

なんであのとき、一緒に連れてこなかったんだろう。
つないだままだから、どこにも行けず水も飲めない、ご飯も食べられない。
なんであのとき、すぐ帰れると思っていたんだろう。

そこには、最愛の家族のことを思って悔やんで悔やんでたまらないKさんがいた。
たかが犬ではないのだと、Kさんの眼は訴えかけてくる。
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posted by 被災地NGO恊働センター at 09:50| 被災地からのレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月15日

【東日本大震災】レポートNo.54

地震に先遣隊として被災地に入った武久真大のレポートです。
避難所での生活が続く方、単身赴任になる方、さまざまな方との出会いがあります。
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武久のレポート〜米沢より〜
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山形県米沢市。
吉椿のレポートでも説明されているとは思うが、ここに福島県から、
福島第一原発から半径20キロ圏内にあり避難指示を受けたひとと、
その周辺から自主避難してきたひとたちが今も避難生活を続けている。


「こころ休まるところ」

避難所の夕飯時。たくさんのひとが配膳場所から長い列をつくっていた。
そんな中、避難所の端の方でぽつん、と座っているおかあさん、Yさん。

お食事、大丈夫ですか? 声をかけた。
孫たちが並んでいるから大丈夫ですよ、から始まった会話は、
アリーナにまではみ出していた長い列が見えなくなっても続く。

娘夫婦と孫2人と一緒に浪江町から避難してきたんだそう。
はじめは親戚の家に避難していたのだけれど、いづらくなって出てきたのよ、とも。

足が悪いからあまり動けなくて。足以外は悪くないんだけど。
家にいたころはリハビリに通ってたからまだ動けた、運動不足になっちゃう。

そう明るく話すYさんに敷いてあるお布団に腰かけるのを薦められる頃、
これまた明るくあいさつされながら、ご家族が夕飯を持ってきた。


ある日、様子をうかがうと少しYさん家族の雰囲気が暗い。心配で声をかける。
ところが一転、ご家族の表情が明るく変わる。
気を遣わせたのか、風を送り込めたのか、それはちょっと分からなかった。

端だからドアが開く度に寒い、と思っていたけど、
いざ真ん中の方が空いてもなんだか動く気にならないのよね、慣れたのかな。
Yさんと娘さんOさんが少し笑いながら言う。
Yさんと最初に話したとき、端で寒くないですか?と言ったのを覚えていたみたい。
避難所の自分の布団が、ある程度は気を抜けるところになっているんだろうか。

そういえば、とOさんの旦那さんが質問してくる。
今度、北九州に転勤になって、だいたいどんなところかな、と。
ひとまず単身赴任で行かれるとのこと。Yさんたちは避難所に残ろうかというところらしい。

話の雰囲気、まちの方というより、山の裏側ぐらいのところですかねぇ、と実情を伝える。
そういう話とは聞いてるんだけど…(会社名)って分かる? ごめんなさい、分かりません。
あまり力にはなれなかった。悔しい。出身地まで覚えていてもらっての質問だったのに。


そのまたある日。夕飯前に声をかける。
明日の朝、どうやら関東の別の親戚の家に避難するとのこと。呼んでもらったから、と。

会えて嬉しかったわ、こんな明るい家族がいたってこと、忘れないでね。
Oさんの旦那さんからも、九州で会えたらね。
思春期のお孫さんたち2人からもあたたかい言葉をもらった。

けれど、それが気を遣ってくれてる顔なのか、本当に言ってくれてるのか、
やっぱりちょっと分からなかった。福島のひとは難しい。
ただ、寝ているお布団の上に何度もお招きされたのは、本当。


Yさん家族が、米沢に限らず、別の避難所に入ることがないことを祈りながら、
こうやって自分のふるさとから転々と移っていかざるをえない現実を感じさせられた。


浪江町は福島第一原発の半径20キロ圏内。いまだ避難指示が出され入ることはできない。
報道によると、現行より厳しい立ち入り禁止の「警戒区域」も検討されている。

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posted by 被災地NGO恊働センター at 10:45| 被災地からのレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする